雑記

窮屈いやだ③ いじめって無くせるの?

いじめの問題が根深いのは、それを指摘すると次の日から自分が標的となり、いじめられる点にあります。

ある意味、自分が犠牲になってまでも正義を貫くか、という大命題が課せられているわけです。「いじめを見たら、いけないよと言いなさい」とどれほどの親がわが子に教育するのでしょうか。

従って、いじめはなくなりません。なくなるわけがありません。

と一般的には思われているでしょう。そこで、ある研修会の機会に(私が進行役でしたから)これをテーマに話し合いをしたことがあります。すると一人の参加者から、次のような発言がありました。

「私は、PTAの役もやらせてもらったことがあるのですが、やはり、親の育て方と思います。特に、子どもに自信をつけさせる教育をすること、例えば、スポーツでもダンスでも習字などの習い事でも、その子の自信となるものなら何でもいいです。その子に自信があれば、発言力も高まりますから。わが子には、そんな育ちの中で、いじめを見た時、ものが言える人間になって欲しいです。もし、いじめの反撃を受けても、自分には「これ」がある、と耐えることができると思うのです。」

私はこの意見を心から歓迎しました。実は、私自身も同じことを考えていたからです。

私は、万が一にも意見が出ない時は、自分の答を参加者の皆さんに聞いていただくことを心に決めていました。だからこそ、果敢にもこのような質問をすることができたのです。

私は、いじめの問題に、これほど明確な答えはないと思っています。

それにしても、自分で提起して自分で答えを述べるなどという滑稽を回避でき、この日は最高の日となりました。

窮屈いやだ④ いじめを見た私

小学校の頃、いじめを見た私は、心が詰まりました。
良くないことが目の前で起こっているのに、それを注意することができません。

卒業式を迎える度にああ、これでいじめを見なくて済む、これで悩まなくて済むと安堵しました。
そして大人になりましたが、これで悩まなくて済むと思ったのは勘違いと気づきました。それは、大人の世界でもいじめがあったから、ということではありません。

自分に子どもができ、学齢に達したとき、「いじめを見たら、注意しないといけない」とわが子に言い聞かせることが出来なかったのです。当然です。自分がそう思っていないからです。自分がそう出来ていないからです。
私はつくづく思いました。自分はいじめの問題から解放されたわけではなかったのだと。単に問題の先送りをしていただけだと。

こういった経験を通して、いじめの問題は自分自身が答えを出さなければならないテーマであるとわかりました。そして、そうしない限りは、その問題は永遠に自分につきまとうということも。

「窮屈いやだ③」にその答えとしたものを書き出しましたが、それを得るまでには、ずいぶん時間がかかりました。
結局自分の子どもにはその「真理」を伝えることができませんでした。

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心理療院開設の準備を始めた自分がこの項を書いていて、改めて2つのことが思い浮かびました。

一つ目は、カウンセラーに求められる「自己一致」という態度のことです。「自己一致」とは、自分が真に思うことと、自分の言動が一致している状態のことです。
もし、自分ができないことを自分の子どもにやりなさいと言っていたとしても、結局伝わらなかっただろうな、とあの頃の自分を思い浮かべました。

もう一つは、心理学者ユングの「あなたが向き合わなかった問題には、運命として、いずれ出会うことになる。」という名言です。
いじめの宿題は、最後には自分にのしかかり、正面から取り組むことで自分の心の中で解決しましたが、このユングの言葉は真実であったと今振り返っています。

皆様の抱えるトラウマも、同じようにしっかりと解消するよう努めたいと、心を新たにしました。

世間体① 世間体も時には?

ある広報に意見が掲載されました。

最近の若い者の生活態度には目に余るものがある。例えばコンビニの入り口付近でたむろし、女子がややもすると下着が見えるような恰好をしながら食べ物を食べている。もしかすると死語になりつつある「世間体」という言葉も時には必要なのではないか、と。

みなさんはどのように思われますか。

この意見は、「もう少し、人の目というものを気にしたらどうだ。親の顔に泥を塗るということを知りなさい」ということでしょう。
この方のお気持ちもわからなくはないですが、本人や親の世間体意識で対応しなくても、少し違った角度での諭しはあると思います。

「あなたも、他人の下着など好んで見たいとは思わないでしょう。人に不快な思いをさせないという練習を始めるといいと思いますよ。」

この言葉の中には、自分が人からどう見られるか、という「自分軸」ではなく、自分の行為によって人がどんな気分になるかという「相手軸」の発想があるように思います。

世間体② 最高の人生

世間体を意識するというのは、人の目を気にするということです。人の目に叶う人生を歩くということです。

つまり、世間体を重んじると、だれもがうらやむ最高の人生を歩いているように見えて、実は他人の人生を歩いていることになります。自分の人生なのに。

世間体③ 細道の奥

世間体を重視すると、そのモノサシに合う人生の選択しかできなくなります。
従って、選択肢が限られた細道人生ということになります。

細道ですから、常に転落の危機が付きまといます。そして、転落します。たいがいそうなります。なぜなら、細道の綱渡りだからです。
同時に、「こうあるべきだ、こうでなければならない」という強い思い込みがあったとしたら、転落の痛手は立ち上がれない程になるでしょう。

「こうあるべきだ思考」でカチカチに硬化した世間体重視の価値観の一方、思い通りにならない現実。
そのはざまで、心は大きな苦痛を味わいます。

こういう人生の歩きかたは、世間体に叶う安全地帯に自分を置いているように見えて、全く逆なのではないかと思います。
おおげさに考えすぎでしょうか。

見ている① 洋服屋の言葉

私の勤務先を先を営業の範囲にしていた紳士服店の店長は、顔も広く、私自身何着か背広を購入したこともあり、親しくしていました。

この店長も年齢を重ね、彼から背広を勧められることもなくなりましたが、時々は私たちの顔を見たくなるらしく、今日も訪ねて来た彼に声をかけてもらいました。

「○○君(私のこと)、元気そうだね。」

「そうでもないですよ。顔で笑って・・・ですよ。なかなか自分の努力は評価されませんからね。」

「うん、だいたいわかる。でも、大丈夫。だれかが見てくれているものだよ。」

「そんなことないですよ。みせびらかしながら仕事しているわけでもないし。」

「何言ってるんだ、良く考えてごらん。きみの事を見ている人がいるよ。誰だと思う?」

「???わかんないです。」

「わからないか。その答えは、『自分』だよ。自分はちゃんと見ている。だから、それでいいじゃないか。」

見ている② だまったまま

私の菩提寺の住職のお連れ合いさんの言葉です。

仏さんは見ておられます。

何も言われないけど、見ておられますよ。

ただ、黙って見ておられます。

見ている③ お返し

別項に、禁煙の体験を書きました。動機が大切という主旨でしたが、禁煙中に強く心の支えとなった一言がありました。

禁煙マラソンの指導者は、次のように言ったのです。
「禁煙は、愛です。」

禁煙を開始してから日の浅い自分にはこの言葉が響きました。愛の意味は、普通は家族への愛、子どもを想う気持ちといったところでしょう。しかし私自身の動機は「自分の為」というものです。その私にはこの言葉は次のように聞こえました。

「私はあなたを見ています」

これを心で聴いた私は、力を振り絞って応えました。

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カウンセラーと相談をかける側との信頼関係をラポールと言います。傾聴等から生まれる強い信頼関係を言いますが、この信頼関係の真の姿には、もう一段深い意味があります。それは、「カウンセラーAが相談者Bに何かを与えるという一方的なものではなく、相談者BがカウンセラーAに、お返しをする」という意味なのだそうです。

私の禁煙は、「お返し」だったのだと気づきました。

人の為?⑧ その心は本物?

人の為と書くと「偽」という字になるそうです。