雑記
人の幸せ③ 車を買う
例えば自動車のコマーシャルで、「自分らしく」とつぶやくタレントがいます。「この車を買えば、きっとあなたの自分らしさが発揮できます」、というのでしょう。言い替えれば、「あなたの個性が光ります」といったところでしょうか。あるいは、「個性的なあなただからわかるこの車の良さ」、と訴求しているのでしょうか。
でも、それを、だれもがあこがれる若手イケメンタレントがいうのです。個性を訴えるこの車がたくさん売れると皆さんの自分らしさはどんなことになるのでしょうね。なかなか複雑です。
ともあれ、このように「自分らしく」とは、様々なシーンで氾濫するありふれた言葉でありますが、少し深く考えてみるととても大切な言葉であるように思います。
人の幸せ④ 現実としての障がい
人権教育の研修会で、現役の小・中学校の先生方に集まっていただき、体や心の障がいとともに生きるということをテーマに話し合いをしたことがあります。
障がい者であることは生活に不便はあっても決して不幸ではないとの意見も示されました。しかし、実際にいとこの子が障がい者であるという方から、現実問題としてはどうしても不幸と思われてしまうと吐露されました。
そこで私も意見を言いました。
「それでは、逆に幸せとは何かを考えてみたいと思います。自分より優秀な人がたくさんいる中で、自分はダメ人間だと思いがちな世の中です。このような、できる・できないの物差しで計るのではなく、いかに自分らしく生きるかという視点こそ重要と思います。例えば「この仕事、あなたらしいね」という評価は、言われた人をとても幸せにしてくれます。なぜなら、「あなたはそこにいていい」、「そこにいる意味がある」ということを言っているからと思うのです。そして自分らしさというのは、究極はその人の「存在自体」を言うのだと思うから、たとえ障がいがあって生まれたとしてもそこにいるだけで本当は幸せなことと思うのですが、いかがでしょうか。」
私はできるだけ感情を排して自分の考えを伝えました。
先の方は、目を真っ赤にしながら、微笑んでおられました。
人の幸せ⑤ 幸せを計るものさし
市の商工担当課に勤務していた時です。学生のUIターンを期待して、市内の複数のIT企業の協力を得て、現地リレー企業説明会を開催しました。
しんがりを務めた企業の会議室を借りて、私は主催者を代表して終わりのあいさつをすることになりましたので、10名余りの学生さんを前にして次のように言いました。
皆さんは、今後就職をされて社会人となられますが、今日の段階で何が自分の幸せと思っていらっしゃいますか。
皆さんは、実は、各々「幸せを計る物差し」というものを持ち合わせているのですが、今回の企業訪問で、何か響くものがあったとしたら、それはあなたの物差しに叶ったということと思います。しかし、都会で活躍する自分とか、都会での華やかで便利な生活であるとか、そういうものにその物差しを当てようとされているのなら、今回の企画はあまり向かなかったかもしれませんね。
年齢では人生の先輩となる私から、皆様へ申しあげるとしたら、世間体とか、優越感とかとは違う本当の幸せとは何かをしっかり考えていただくこと、そしてその価値観をもとに、何に物差しを当てたらいいかに気づいて欲しい、この2点を大事にしていただきたいということです。
どうぞその新しい価値観で物差しをしっかり磨き、今日の体験を計りなおしていただけたら、この企画に協力していただいた企業の皆様も、携わった担当者もそれこそ幸せに感じることと思います。
本日はありがとうございました。
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この挨拶には後日談があります。実は、参加者の中に、市役所職員の息子さんがいたのです。その息子さんは、興奮した口調でお父さんに、「こんな挨拶、初めて聴いた」と話題にしたそうです。
それで、そのお父さんは、見当をつけて私を見つけるなり教えてくれたのです。
私は、その場では静かにしていた学生さんも、本当は心の中は動いていたという事実を知りました。
人のため?① 講師の本音
人権教育の啓発の企画で、心に病のある方のためにグループホームを設立して社会復帰の支援をしていらっしゃる方を講師としてお迎えして講座を開催しました。
受講生は、地域のリーダーやコミュニティセンターの職員さんです。主催者にとって、地域にある様々な課題の解決のために立ち上がるエネルギーを養っていただくこともこの講座の目的の一つです。
そこで、私は最後に講師に次のように質問をしてみました。「○○さん(講師先生のこと)は、時には自分のことを犠牲にして、弱い立場にある人のために一生懸命に力を注いでおられますが、そのエネルギーの源は何ですか。人のためにできるというのはとても立派なことと思うのですが。」
講師は一瞬考えた表情をされましたが、次のように答えられました。
「人のためになんて考えたことないですよ。全部自分のためです。皆さんだってそうでしょう、全部自分のためと思いますよ。」
この言葉を伺い、この講座のハイライトとすることができたような気がしました。
人のため?② 動機
地域で人権のまちづくりに尽力されているリーダーの方々とお話をする機会がありました。
ある方には、差別は許さないというとても強い意志が感じられましたので、私はその動機を尋ねてみました。
するとこの方は「何を聞くか」というような顔つきをされましたが、しばらく考えてからこう答えられました。
「だって、差別を見過ごしたら、自分が差別に加担したことになるでしょう。自分が差別者となるのはいやだからです。」
やはり、「弱い立場の人のために」とは一言もおっしゃいませんでした。この方も軸足は「自分」でした。
人のため?③ 写メで紹介
こんな人生相談が新聞に載っていたと職場で話題になりました。
ある娘さんが、彼氏と結婚することを決めたのだけど、自分の両親が会わせてくれとうるさくてたまらない。一応携帯電話の写メールで彼の写真を送ったのでこれで良いと思っているけど、どうだろうかと。
回答者の答えは、「親が子を思う気持ちを理解してあげてください、あなたも子どもができたときにきっとその思いに気づくはずです」という内容だったといいます。
「あなたも子どもができたときに・・・」とは自分のこととしてとらえさせるためによく使われる説得法ですが、これができなくての悩みなのですよね。私だったら次のように答えますかね。
「あなたは本当にその彼を好きですか。両親に自慢もできない彼のどこを魅力に感じたのか、あなたの心が不思議でなりません。」
これに対してこの人はどう答えるでしょうか。
「そんなことないですよ。自分はこの人のこんなところやあんなところが好きだから。」
「そう、それがわかっているなら、私も祝福しますよ。今すぐでなくても良いから、ご両親から祝福してもらえる機会があると良いですね。ひとから認めてもらえるというのはとても気持ちのよいものですから。」
果たして大好きな彼を紹介するのは両親のためでしょうか。
このような場合でも軸足は「自分」でなければならないように思います。
人のため?④ 注意できますか?
身体障がい者優先の駐車場があります。
そこしか空いていない場合、あなただったらどうしますか、と尋ねると、遠くても別の駐車場まで移動する、空くまで待つ、そのお店の利用をあきらめる、とおっしゃいます。最近の意識の向上はなかなかのものです。
そして、関連して、次の質問をしてみます。「健常の方がルール違反してそのスペースに堂々と車を停めているところに遭遇した場合、あなただったら、注意することができますか」と。するととたんにトーンが落ちてしまいます。
さあ、その勇気を出すにはどのように考えたら良いでしょう。
私だったら、その駐車場は自分の駐車場と考えます。つまり、明日自分自身が不自由となり、そこを使う立場になるかもしれません。今日、ルール違反を認めると、明日、自分がそこを利用できなくなるのです。そう考えると、少々怒りの感情さえ沸いてくるような気がするのですが、いかがでしょう。
障がい者優先の駐車場は、弱い立場にある方のためにあるのではなく、実は、自分のためにあると発想できると、世界が違って見えるのです。
そんな考えは不純だという意見もあるでしょう。しかし、このように視点を変える練習をしていると、最後には「何のために」「だれのために」という部分は薄れてくるものなのです。
なぜなら、登った山の頂上から見える景色は、どのルートを通ってきたとしても同じだからです。
人のため?⑤ 心のハンドル
私の二男が中学生の時、1年間だけですがPTAの会長を引き受けました。
理由は、卒業式の時に会長あいさつをさせていただく機会があるからです(笑)。中学生の息子に、大勢の人の前で演壇に立って話をする父親の姿をみせてやりたいと思ったのです。(だから、これって奉仕に見えて実は「自分のため」ですよね。)
さあ、1年間の役を終えて卒業式当日、檀上で私は次のようにご挨拶をしました。
「お正月に『人生ゲーム』という双六をしたことがありますか? そのコマは車を模しており、家族が増える度に人に見立てたピンを立てていきます。
つまり、生徒の皆さんは、家庭とか、人生とかは、同じ車に乗って家族とともに進むものとイメージされていると思います。例えばお父さんが運転手、お母さんが助手席で、自分や兄弟、祖父、祖母は後ろの席でしょうかね。でも、本当は違います。本当は全員、一人一台の別々の車に乗っているのですよ。その証拠は・・・、自分の身体という乗り物には、自分の魂しか乗っていませんから。
家でお手伝いをといわれていやいやながらやるのは、家の人にやらされたと思うけど、実は自分でハンドルを切っているのです。学校の先生にボランティア活動をしなさいと言われて、面倒と思いながらやるにしても、先生がクラスというバスのハンドルを切っているように見えて、実はあなたが自分のハンドルを切っているのです。
いやなこと、面倒な事というのは、決して人にやらされているのではなく、自分が選んでしているのです。
卒業生の皆さん、明日からもいやな事、面倒な事がたくさん起こってきますが、折角ですから自分でハンドルを切っている様子を想像しながら取り組んでみてください。そして、これって一体誰のためにするのだろうと問いかけてみてください。すると少し、違った景色が見えると思いますから。」
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その後、何年も経ってから、二男にその時のことを話したことがあります。二男は、ああ、車の運転の話ね、と言いました。なんで覚えているのかとびっくりしながら尋ねると、学級に戻ってから、担任の先生が皆の前でその話題にあらためて触れられたというのです。PTA会長は自分の父だと暴露されるのが恥ずかしくてヒヤヒヤしたから忘れられないと言いました。
誇らしいよりも、恥ずかしい思い出だったようですが、演壇に立つ父の姿は間違いなく息子の心に残ったようです。
人のため?⑥ 禁煙は簡単
タバコの害を訴えて様々な禁煙運動が展開されています。
雑誌に、ある作家のエッセーが掲載されました。禁煙はとても簡単だという内容です。「動機さえ定まっていれば」禁煙は簡単、と言い切っています。私の禁煙の経験で言うと、確かに納得です。私の場合は、日常生活で少し息が苦しくなることがあり、禁煙を意識し始めました。
家族のためとか、子どものためとか、家族愛を訴える禁煙ポスターを見ても通り過ぎてきた私です。しかし、肺が黒くなっているポスターには内心ドキリとしました。
禁煙マラソンに誘われてチャレンジしましたが、ガムもパッチも内服薬もない時代です。本当につらかったのですが、目的は自分のため、と定まっていました。そして成功。おかげで「禁煙は簡単」とは言いませんが、動機次第という部分は証明することができました。
それにしても気になるのは、エッセーの著者自身の動機です。最後まで読み切りましたが、具体的な内容には触れられていませんでした。でも、きっと著者のいう切実な動機とは、人のためではなく、自分のためにあったことは間違いないと思っています。
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進んだ催眠療法では、禁煙も可能としています。禁止の暗示ではなく、なぜ煙草を吸うのか、その本当の目的・動機を探り、それを吟味させるという手法となっています。
人のため?⑦ 映画出演
バリアフリー映画という分野があります。
映画に場面解説の音声を重ねて、視覚障がいのある方にも映画を楽しんでいただく活動です。新しい映画だと著作権がかかわるため素材は旧い名作映画ということになります。しかし、旧くても、日本語吹き替え版なら、その吹き替えの音声部分の著作権は新しいので、音声はすべて新たに録音し直しとなります。
私は、この声優募集に応募し、参加することにしました。そもそもおしゃべりする際に、声に大小を付けたり、溜めをつくって相手の興味をひくような所作は好きでしたので、声優の経験はありませんでしたが、端役がもらえれば十分というスタンスでした。
取り組むのは1947年のアメリカ映画「三十四丁目の奇蹟」です。練習期間が終わり、役の発表があって仰天! なんと私に主役のサンタクロースの役が与えられたのです。
とりあえず引き受けることにしたのですが、セリフの多さには参りました。若い子たちはほぼ暗記状態でスイスイなのを横目にしながら、練習に没頭します。
夏から秋へと季節は変わるも台本は手放せません。いよいよスタジオでの録音開始。台本は何色もの蛍光マーカーと多くの付箋で賑やかなことになっています。それでも1発オッケーなど甘い判定は出ません。共演の声優さんにも迷惑のかけ通しで気分的にも落ち込む日々でした。
作品が完成して監督は上機嫌でした。出演した声優は、世話役を兼ねた大人のアマチュア声優以外は高校生から20代前半がほとんどで、学校生活で課題のある子も少なくないと聞きました。そんな中で、苦しみながらもやり遂げようとする、大きな体を丸めたオジサンの私。私の姿が彼らにどのように映ったのか、それを想像するとそこに作品完成とは別の見逃せない成果があった、と監督から言葉をいただきました。
そんな話を聞かされて、私の背中のように丸め癖のついたボロボロの台本は、捨てることができません。